自己紹介にかえて

多発する少年犯罪。
たしかにこの頃、傷つくことが多いです。
傲慢で浅はかな大人たちの、言葉や態度で傷つくことが多いです。
そんな時は、自分だけはそんな人間にはなるまいと、
そっと心に誓えばよいといいますが、それも苦しいものです。
嫌なことはすべて忘れて、楽しいことだけをしていようと、
テレビも雑誌も狂ったように叫び続けています。
癒しという言葉が流行しています。
傷を癒してくれたものはきっかけにすぎず、
傷を癒したのは自分自身でしかありえないのに。
何かに依存せずには生きられない人たちが多いです。
自分を変えてくれたものはきっかけにすぎず、
自分を変えたのは自分自身でしかありえないのに。
何かを求めてすがり、それが汚されることを極度に恐れています。
私は、大事なことがずれている気がしてならないのです。

  大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる
  外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、
  一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかるこ
  とだ。たとえば、星をみるとかして。
              池澤夏樹「スティルライフ」より

春になると私は、アラスカの北のはずれにオーロラを見に行きます。
-30度の寒さの中で、何時間も何時間も待つのです。
あたりは音もなく光もなく、夜空には銀河系の星々が輝いています。
南の空ではオリオンの三ツ星の下で星々が生まれています。
一千年前、牡牛座の角の先でひとつの星が死んで超新星になりました。
銀河の中では百億個の星々が生まれては死んでいるのです。
西の空にはアンドロメダのおなかのあたりに隣の銀河が見えます。
宇宙には無数の銀河があって、それらは互いに遠ざかっています。
百五十億年前に生まれたこの宇宙は、今も膨張を続けているからです。
地球の自転を自覚しながら、宇宙の流れに身を任せていると、
北の空低く、緑白色の光の橋がかかります。
太陽から飛来した荷電粒子が地球の磁力で引き寄せられ、
地球の南北に二つの光のリングをつくったのです。
緑白色の穏やかで優しい光は酸素の光です。
夜空に輝く満天の星々の周りにはいくつかの惑星が回っていて、
そのうちのいくつかでも、光のリングが現れていることでしょう。
色は、惑星の大気の成分によって変わるので、緑ではないかもしれません。
どこかの緑のリングの下では、誰かが夜空を見上げているかもしれません。
やがて光のリングは大きくなって、少しだけ赤道の方向に移動します。
地球にかかった南北の光のリングは、同期して、同じように動いています。
北の空低くかかっていた光の橋は南下して、頭の真上に近づきます。
ふいに、それは明るさを増し、動き始めます。
カーテンのようにゆらめくと、襞は際立って光の柱となります。
一晩にたった数分の出来事までもうすぐ。
私は冷たい雪の大地に横たわり、期待に胸を膨らませます。
ついに天空より舞い降りし光のカーテンは激しく波打ち、
裾をピンク色に染めながら艶やかに舞い踊ります。
東西から流れ込んだ光の柱は、頭上で放射状に並んでゆっくりと回転し、
天空の暗黒の一点を指し示します。
私は胸がいっぱいになり、涙が溢れてしかたがないのです。

幸いなことに私は、素敵なものをたくさん見つけました。
星、オーロラ、海、珊瑚礁……。
世界は大きくて美しくて優しいものです。
それに比べると人間なんてちっぽけでつまらないものだ、とは思いません。
世界は大きくて美しくて優しいものです。
そしてそれをそう感じる私がここにいます。
人は偉大なものではありませんが、つまらないものでもないのです。
心の傷は大きくはありませんが、小さくもないのです。
それなりの苦しみがあり、それなりの価値があるのです。

  二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過ごすの
  はずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
  水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。星を正しく見
  るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろ
  う。星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。
              池澤夏樹「スティルライフ」より

まだ私は、毎日を過ごすのが楽ではありません。
気分で水の味は変わるし、人ともよく喧嘩をします。
私は科学に志し天文学を研究している大学院生です。
人類は科学を駆使して欲望を追求し、殺戮と破壊を続けています。
それを思うと、出口は見えず、苦しくなるばかりです。
だた一つ言えるのは、
科学は、世界と呼応し調和するのに役に立つということです。

もし心傷つき胸張り裂けることがあったら、
広がり続ける宇宙の中で、無数の銀河が互いに離れ合い、
銀河ひとつひとつの中で無数の星が生まれては死んでいくこと、
沖縄の紺碧の海の中には、色鮮やかな珊瑚礁が広がっていて、
金色のユビエダハマサンゴに瑠璃色のスズメダイが戯れていること、
どこまでも深い雪に覆われた酷寒の大地には、
今夜も緑白色の光のカーテンが舞い降りていることを、
どうか想像してみてください。

2000.8.31 

追記:
2002年春、大学院を卒業し、ドイツの研究所に天文学で就職しました。
夢が仕事になりました。